天才の解釈

 

 

天才解釈の分類

 

天才の解釈については、何をもって天才とするかという判断基準が、人によって異なっています。人によって天才の解釈が違うのなら、まずはどのような場合に天才と表現されるかを簡単に分類してみました。そうすることで、多角的な見地から天才とは何なのかという答えに近づくと考えたからです。

これは学者が唱えた天才論の分類ではなく、一般的な天才解釈の分類です。他にも天才の解釈はあるでしょうが、代表的なものを挙げてみました。天才の解釈は、大きく分けて次のように分類できます。

 

  • 天才天性説 生まれつきの才能を持っていると思われる人。一番ポピュラーな天才の解釈。
  • 天才才能説 非凡な才能そのもの。また、その才能を発揮している状態。天才はgeniusの訳語で、資質や類いまれな才能という意味もある。
  • 天才継続説 努力、忍耐、情熱、好奇心、集中力などを継続させられる人が天才。
  • 天才感性説 天才は極めて感性が繊細で、センスが秀逸である点が常人と異なる。
  • 天才実績説 天才とは結果論であり、常人が到達できない輝かしい実績を残した者への称号。
  • 天才特異説 常人とは違う特異な存在。特異の言葉の意味は、特別に他と違っていること。特に優れていること。
  • 天才賛辞説 驚く程の感動を人に与えられる対象へ向けた最上級の称賛の言葉。感動した感情を天才という言葉で主観的に表現したもの。
  • 天才子供説 少年期の頃から並外れた才能を発揮した者。もしくは、子供のように純粋な感性を持っている人。もしくは、子供はみな天才だ、という解釈。
  • 天才脳力説 高い知能指数や記憶力や暗算力など、脅威的な脳の能力を持っている人。

 

従来の天才の定義について

天才の定義を検索してみると、次のような解釈が一般的になっているようです。

天才とは『生まれつき備わった優れた才能。天性の才能を持っている人。』

これは、二つの天才の解釈を合わせた表現です。

まず『生まれつき備わった優れた才能』とは、上の分類にある天才才能説の捉え方です。
才能説の解釈では、詩の天才と言う場合、素晴らしい詩を創ることが出来る非凡な才能を持っている“人物”のことではありません。詩の創作に関する非凡な“才能そのもの”また、その“才能を発揮している状態”のことです。

才能を発揮している状態に関しては、具体的に実在した人物のエピソードで説明します。
早熟の天才と呼ばれるアルチュール・ランボーが詩を書いたのは、15歳から19歳の間と言われています。詩人ランボーのように「この人は15歳から19歳までは天才だったが、その期間以外は天才ではない」という解釈もあります。
このような捉え方は、才能を持っていた人物を天才とするのではなく、才能を発揮している状態を天才としている解釈になります。

次に『天性の才能を持っている人』とは、天才天性説の捉え方です。
天性説の解釈では、天才とは『生まれつきの才能を持っていると思われる人』のことです。これは、人並み外れた才能を発揮する人に対して「こんなに才能があるのだから元々優れた才能を持って生まれたに違いない」というイメージからくる捉え方です。

たとえば、大した努力もせずに並はずれた実力を発揮できる人や、何でもこなせる万能な人は、天才と言われる場合があります。こういう人は、本当に天性の才能を持って生まれたのかもしれません。

ですが、天才的な才能を持っていない人であっても、器用で物覚えが早い人であれば、それだけで「天性の才能をもっている人だ」と思われる場合があります。
『生まれつきの才能を持っていると思われる人』とは、天才かもしれない人という曖昧さが表現されています。

『誰もが天才に生まれつくが、生きる過程がそれを奪うのだ。』
バックミンスター・フラー アメリカの建築家

この格言が示すように、本来は人はみな天才だと解釈している人もいます。この考え方は、天才の生前説的な解釈ですが、これも天性説になります。

たしかに、生まれ持った才能は、誰にでも何か一つはあるかもしれません。たとえ天性の才能を持っているとしても、自分の才能に気付くきっかけが無ければ、才能を自覚することもなく生涯を終えていきます。周りの人や本人すら才能に気付かなければ、誰も天才とは認識しません。そのため実際には、天性の才能を有しているだけでは天才とは言えず、才能を発揮できる者が天才と呼ばれます。

人間以外の対象に向けて天才と表現する場合があります。たとえば、高い能力を持つ犬を天才犬と呼んだりします。他には、機能を褒める時にも天才という言葉は使われます。それは、高性能の機械や万能な機能を備えた物に対してです。「この車は天才だ、この万能調味料は天才だ」など。


これらの例からすると、天性の才能を持っている“人物”を天才と定義すると、高い能力を持つ犬を天才犬と呼んだり、物を天才と表現するのは正しくないことになります。



天才とは何か

人は必ず客観的な判断を下す訳ではなく、感情に左右される生き物です。そのため「~の天才」と表現した場合、言った人の動機によって意味が全く違ってきます。

たとえば『サッカーの天才』とした場合、サッカーの素質を持っている人という意味や、サッカーに関しての偉大な実績がある人という意味、サッカーに関する努力を継続させられる人を指す意味など、様々あります。

優れた知能や才能を生まれ持った人を天才とするなら、たとえ実績を残さなくても努力をしなくても天才になります。
天才を類い希な才能により輝かしい実績を残した者だとするなら、天性の才能があったとしても、とても努力をしたとしても、実績を残さなければ天才ではありません。
天才は情熱や努力を継続させた者だとするなら、天性の才能があり、ほとんど努力もせずに才能を発揮した人は天才になりません。
このように、従来からある天才の解釈を一つに絞れば、他の天才の解釈が否定されます。

天才と天才ではない人の違いを、仮想的に具体的な例を考えて検証してみました。
たとえば、ある人が幾つかの発明をしたとします。その発明が実現せずに発明した人が死にました。その人が死んだ後に、その発明の有用性に目を付けた人が実現し、それが世界中の人達の生活を飛躍的に向上させたなら、発明者は天才と呼ばれるかもしれません。

その発明がとても素晴らしいとしても、時流に乗らずに普及しなければ、社会からは天才として認められないでしょう。発明者が天才と認められても認められなくても、生きていた時の才能や実績は何も変わりません。天才と呼ばれた場合、ただ評価だけが変わります。

このように、自分の周りにいる人が社会的評価において、今は天才でなくても死んだ後に天才になるということが、あり得ないことではありません。つまり、天才と天才ではない人の違いは、結果的にその人が天才と認知されたかどうかという“評価”にあります。

世の中の多くの人を喜ばせることをした人でなくても、天才と言われる場合があります。たとえ犯罪であっても、人並み外れた才能を発揮した凄い実績があれば、天才と表現されることもあります。それは、天才という言葉が“賛辞”だからであり、巧みな技術を要する詐欺師や※クラッカーを天才と表現することもあります。


※クラッキングする人のことをクラッカーと言います。クラッキングは、コンピューターシステムに不正に侵入して、システムやデータを破壊したり改ざんしたり盗んだりする行為です。

クラッキングのクラックは、割れる、割れ目、隙間など広範な意味があります。隙間から侵入するというニュアンスでも使われる言葉で、泥棒が侵入するという意味でも使われます。

クラッキングのことをハッキングと言う場合もありますが、本来ハッキングは、高度な知識や技術を用いてコンピュータやコンピュータネットワークを解析し、改変したり構築することをいいます。

天才という言葉には、飛び抜けているとか逸脱しているというようなニュアンスがあります。一般的な解釈としては、特定の分野で飛び抜けた才能を示した者や、常人には出来ない革命的な事をやってのけた人が天才です。そのため、優れた才能や実績があるだけでは、天才とは認識されません。

逆に、ある分野で一番になるような実績がなくても、明らかに他とは違う飛び抜けた才能や、その人にしか出来ない個性があれば、天才と呼ばれることがあります。
自分の好きなクリエーターやアスリートに対しては、たとえ世間に賞賛されるほどの才能や実績が無くても「天才とはこの人のためにある言葉だ」などと思う時もあります。自分が才能を認めた人を天才だと思うのもよくあることで、才能を過大評価してしまいがちになります。このように、実績からして才能が天才というレベルに至らなくても、天才と表現されることがあります。

 

まとめると、天才とは、社会的評価において優れた才能や実績がある者のことを指すとは限らず、結局は “主観的に褒める表現” だと言えます。


天才の定義

これはあくまで、私の解釈による天才の定義です。

『天才とは驚く程の感動を人に与えられる対象へ向けた最上級の称賛の言葉』

上記の様々な天才の解釈を総合的に判断した結果、天才賛辞説が天才の定義になるという結論に至りました。

シンプルに表現すれば、天才とは褒め言葉です。天才と褒め称える対象が、どんな人物であっても、天性の才能であっても、素晴らしい努力やセンスや実績であっても、結局のところ才能や能力を称賛していることに変わりありません。

天才と表現する対象が、人間以外の生き物や物であっても、天才とは褒め言葉とする賛辞説の解釈では、無理なく天才の説明ができます。特に物を天才と表現する場合、賛辞説以外の解釈では説明が付かなくなります。